哲学ピンポンダッシュ!委員会

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中沢新一『ポケモンの神話学』検閲読書会!!

人類学者の中沢新一があの超有名ゲーム・ポケットモンスターについて論じた本があるらしい。初代ポケモンが発売された1996年当時、中沢は既にニューアカのスターにして中央大学教授。そんなインテリ野郎にポケモンを上から論じられてたまるか!ということで、ポケモン全盛期世代である我々は急遽検閲読書会を開催することにした。

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ポケモンの神話学』の旧版、『ポケットの中の野生』

K……20歳。ポケモン歴12年。初めてプレイしたゲームが『ポケットモンスター ダイヤモンド』。最新作のソード&シールドもプレイ済。もうすぐ発売のダイパリメイクがクソグラなことに憤怒の炎を燃やす、自他共に認めるダイパ厨。

 

S……20歳。ポケモン歴実質2年。小学生時代、『ダイパ』、『プラチナ』、『BW』等を人並みにやっていた。ある時期からはほとんどポケモンをしなくなり、Switch持ったことはおろか、やったこともなく、ゲーム全般に余り詳しくない。

 

〜導入〜

 

K では、検閲読書会やっていきましょうか。

S    よろしく。

K 最近やってますか?ポケモン。おれは最新作をやってから大分ご無沙汰ですけど。

S 私はポケモンに限らず、普段あまりゲームをしない人間なんだよね。だけど、一昨日部屋の整理をしようとした時に、たまたまDSの機器とポケモン『ホワイト』を見つけて、久しぶりにやってみるかとプレイしてみたら、もう面白すぎて………。2日間で36時間位プレイしちゃった。

K 36時間(笑)暇ですね……。

S 暇だからやってたんじゃねーよ!ポケモンを暇つぶしの道具に矮小化するな!

おれ すいません(恐縮)何がそんな琴線に触れたんですか?

S 敵キャラのNのエピソードに滅茶苦茶心打たれちゃったわ………。泣いちゃった。

K 冷静に考えて、おれの方が遥かにポケモンやってるんですけどね。この2日でどうしちゃったんですか(笑)まあNの話はおいおいやるとして、早速読書会始めていきますか。

 

 

1章から3章について

K 1章『インベーダー革命』、2章『モンスターの誕生』、3章『RPGのエロスとタナトス』……。ここまでほとんどポケモンの話してないですけど(笑)

S ポケモンについてアツく語る会じゃないの?聞いていた話と違う(笑)

K その意見はもっともなんで、ざっとまとめます。

 

①日本のテレビゲームの始祖『インベーダーゲーム』はフロイトの『死の欲動』が関連する遊戯であり、インベーダーはラカンが云う対象aの特徴と一致している。対象aは知覚や意識の秩序からはみ出る過剰を抱えていて、人は対象aを通じて生命そのものに触れることができる。

②インベーダーは正体不明のモノがウジャウジャいる多数性としての『過剰』だった訳だけど、多様性の『過剰』として怪獣やモンスターがいて、日本文化はこの点では非常に習熟している。例として挙げられているのが、『百鬼夜行図』や『ウルトラマン』。

③しかし、この世界に唐突に出現する怪獣たちからは物語が生まれない=B級映画的だ、と中沢は批判していて、その表層だけの世界に「襞」=世界観を作ることでファンタジーの入り込む余地が生まれ、その典型がRPG

対象aというのは、言葉によって秩序化される以前の母子の結びつきのことでもあるから、永久に手に入らないのだけれど、人はその現実を巧妙なファンタジーの力によって見ないようにする。言葉の秩序を破壊して母親と未分化な状態に立ち戻ろうとするタナトスを体現するのがRPGにおける敵で、対して主人公が体現するエロスはその破壊衝動から生き延びるために迂回路を取る、RPGというのはそういう物語なんだという話です。

 

S なげーよ!「ざっとまとめる」ってなんだったんだよ(笑)。俺が代わりに「ざっとまとめる」と、ゲームの中にも、科学だったり言葉の体系だったりでは表しきれないような魔術的なものへの欲求があるっていうことを、精神分析学的な用語で説明しているっていうことなのかな?

K そうですね。大雑把にはSさんのまとめで合ってると思います。

S うん。

K じゃあ、これから4章に入りましょう。やっとポケモンの話になります。

S ヤッター!!!!!たとえ火の中水の中森の中草の中♬

K テンション上がったからって、歌わないでください(笑)

4章『ポケモンの手柄』について

K 4章からは、各自もう一度黙読していきましょう。

 

黙読タイム

 

K 読み終わりましたか?

S うん。

K じゃあ、話していきましょう。まずはざっとまとめていきますか。

S 君はさっき「ざっとまとめる詐欺」をやったので、今回は僕が「ざっとまとめ」るよ(笑)

4章では、3章までのゲーム史的な考察を受けての、ポケモンの考察になります。要するに、ポケモンというゲームは、それまでのゲームが持て余していた「対象a」的なものを、知的にうまく昇華しているということを中沢は主張している。「ポケモン」という存在自体は、どこから発生したのかもよく分からない不思議なものなんだけど、それが、「モンスターボール」で捕まえられたり、或いは、「ポケモン図鑑」によって簡潔に説明されたりする。全く不可知なものでもないし、完全に観察できるものでもない、そこの距離感が絶妙なのがポケモンの特徴だと、中沢は主張している。こんな感じでどうかな?

K いいと思いますよ。Sさんはどういう感想を持ちました?

S そうだなぁ……。言いたいことは分からなくもないんだけど、実際ポケモンに「対象a」的な、魔術的な雰囲気っていうのをそんなに感じるか?と、素朴に思ってしまう。

K なるほど。少なくとも成人した現在、ポケモンに魔力や野生を感じたりはしない。単なるデータ上の存在でしかないかな。

S そうだよね。

K もっと言うと、子供の頃でもそんなこと感じてたか?ってのもある。

S 確かに(笑)

K ここの『「モンスターボール」に閉じ込められた怪獣のことを考えてみよう。怪獣はプラスチック状の薄い膜でおおわれいるから、手でそれを持ったときにも、ねちょねちょ、べたべたした、怪獣特有の粘液状の肌には直接接触しなくなる。このねちょねちょ、べたべたという粘液の感覚は、唾液や母乳のような、幼児と母体との接触につきものの感覚だ。唾液や母乳が、母のからだと幼児のからだの間にあって、二人をつないでいる。つまり、この粘液の感覚こそが、「対象a」に特有の接着感をしめしている。』って箇所とか。

S そんなこと考えてポケモンやってなかったよ(笑)

K 中沢は無意識に影響してるんだって言うんだろうけど、違うと思う。

S ポケモンをプレイする子供のことを、どうも自分の主張に都合よく解釈してるようにしか思えないんだよな。

K 自分の理論に当てはめようとしてる。

S この本のプロローグの書き出しも酷くてさ、多摩川のほとりを歩いていると、川べの水たまりで片手にゲーム機を握り、もう片方の手でおたまじゃくしやザリガニを捕まえようとしている小学生を見かけて、子どもたちが自然と技術との調和を実践しているということを感じた、ということを中沢は書くわけだけど、こんな小学生見たことねーよ(笑)

K もし仮にいたとしても、そんな奇妙な光景を時代の象徴的に扱うのはおかしい(笑)

S 俺がもしその光景を見たとしたら、「水溜りにゲーム機落としたら壊れちゃうでしょうが!!」って、走って説教しに行くわ(笑)

K そんなことはないですけど(笑)ゲーム文化っていう新しい文化潮流を自然との触れ合いみたいな特殊な文脈のみに回収しようとしている節がある。たしかにポケモンGOとかはそういう面もあるけど、もっと別の文脈もあるでしょ。

S そうだよね。ポケモンを自分の理論に都合よく使っている。この二日間でポケモン36時間やりこんだ俺からすると(笑)、中沢の書き方は外在的でムカつくよ。

K うん。教科書の代替品にもなる様な、「対象a」との適切な距離感を学ぶツールとして、ポケモンが把握されている。子どもの遊びを見守るおじさんの視点から描かれていますよね。

S 全くその通り。象徴化があーだこーだとか、対象aがどーのこーのとか言ってるけど、ポケモンに「理屈では捉えきれないもの」を見る中沢の記述が、非常に理屈的で、安定しちゃってるんだよね。中沢はポケモンをプレイしてないよ。やったとしても、熱狂してやってない。一種の研究の対象としてやってるに過ぎない。

K 2日間熱狂しただけなのに、偉く饒舌に語りますね(笑)じゃあ4章はこの辺で終わりで、5章行きますか。

5章『今日のトーテミズム』について

おれ じゃあ、黙読しましょう。

 

黙読タイム

 

S 読み終わった?

K はい。例のように、簡単な要約から行きましょう。5章で言っていることも、基本的には4章で言っていることとあまり変わりません。

モンスターという表象は「対象a」=過剰に属するが、「子どもの科学」の精神=分類原理によって昇華される。「子どもの科学」の「分類原理」やポケモン同士の「冗談関係」、ポケモン多神教的世界観には「野生の思考」が宿っているという話でした。

S まとめとしてはそんなもんじゃないかな。君は5章はどう思った?

K うーん………。強い違和感を徐々に持ち始めています(笑)。まず、ポケモンが150種(当時)いることについて、中沢はこんな風に語るわけです。

「このゲームの作者たちは、流動的な生命の流れの中に非連続な切れ目を入れようとしている。背後に連続して流れる何かの潜在的な力を直観している子どもたちは、そこに切れ目が入れられることで、カオスを秩序に作り変える知的な喜びを味わうことになる。」

どうなんでしょうか(笑)。カオスを秩序に作り変える知的な喜びっていうのは、中沢が批判対象にしてる「西洋近代科学」的なものと何が違うのでしょうか?

S うーん………。ポケモンにおける分類の喜びは、「少年の科学」と表現されていて、「少年の科学」vs「西洋近代科学」という対立構図が中沢の頭の中にはあるよね。「少年の科学」は、「背後に連続して流れる何か」を想定しているから、「野生の思考」に親和的ということなのかなぁ。

K ポケモンにそんなもの感じますかねぇ。

S それと、「戦闘シーンで冗談関係が発生する」という部分も意味不明。「冗談関係」っていうのは、なれあいやじゃれあいが出来るようになる関係のことを指す、人類学の用語のようだけど、戦闘シーンはじゃれあいじゃなくて、無慈悲なまでに「戦闘」でしょ。

K そうですよね。「はかいこうせん」なんて技もありますからね。じゃれあいの関係の相手に、「はかいこうせん」なんて食らわせますか(笑)?それで相手が「ひんし」状態になったりするんですよ。

S うん。「ひんし」になったら、滅茶苦茶安く買える「ふっかつそう」を大量にポケモンに投与して、無理矢理戦わせるからね。ポケモンをなつかせるみたいな感覚は、殆ど皆無と言っていいと思う。私が小学生の頃はそうだった。

K とにかく、ポケモンをロマン化し過ぎなんですよね。こんなんだったら、まさにSがここ2日ドハマリしていた、ポケモン『ブラック・ホワイト』の、ラスボス「N」の方がよっぽど良いこと言ってます。Nは、ポケモンとトレーナーの関係は、健全で円満な関係、中沢的に言えば、「冗談関係」に見えるけれども、実際は、トレーナーが一方的にポケモンを従わせる様な、暴力的な関係なんじゃないかって主張するわけですから。

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ポケモン ブラック・ホワイト』に登場するN。

S そうなんだよ。中沢の小難しい欺瞞よりも、Nのストレートな感性の方が上を行ってるよ。俺はあの『ブラック・ホワイト』のNのストーリーには相当食らったんだけど、実際の評価はどうなの?

K 評価は相当高いですよ。ただ、余りにもポケモンの根幹をついているので、「シナリオライターが暴走した」とも言われますが(笑)

S へぇ(笑)。私としては、Nが言ってることは正しいと思うよ。ポケモンを捕まえて、技マシンで無理矢理強い技覚えさせて、敵キャラをバッタバッタと倒していくことに、良きにしろ悪しきにしろ、ポケモンの面白さがある。そこは認めないとだめなんだよ。おじさんが子どもに変なロマンを素朴に求めちゃっている感じが、読んでいてキツイ。

K まぁ、批判はこの辺で一旦区切って、最後、第6章行きましょう。

 

6章『ゲームの世界の贈与論』について

K じゃあ、第6章黙読しましょう。

 

黙読タイム。

 

K 読み終わりましたね。では大雑把なまとめをしていこうと思います。

第6章はポケモン交換の話になるわけです。中沢曰く、ポケモンの交換は「贈与」であって、非常に文化人類学的な営みらしいです(笑)。ポケモンの交換は、単なる商品の売買や物々交換とは違って、交換する品物に、贈り主の人格が付与している。なぜなら、各ポケモンには、それを捕まえた人間の名前が「親」として記録されるようになっていて、これは交換をした後にも残る記録だからです。つまり、ポケモンがどこへわたっていこうとも、それを捕まえた親の記録は消されない。そんな、人格を含んだ「贈与」であるからこそ、ポケモン交換には、哲学や心理学では十分な解明ができない、ドキドキする「ドラマ」がある。ポケモンの交換は、古代から続く人間の深い部分、「個体性をこえて流動している宇宙的な力」に触れている、と中沢は主張しています。

S そうだね。まとめはそんなもんじゃないかな。で、どう思った?

K そうですね。取りあえず、中沢の主張は間違ってると思いました。

S 一刀両断(笑)。まあ私もそう思うけど。この章は無茶苦茶すぎて、もうここまでくると、逆に「奇書」として面白いレベルだよね。

K ポケモンの交換が商品交換じゃないんだって言うわけだけど、子どもっていうのはわりかし実利的な存在であって、ポケモン交換っていうのも、もっとドライに捉えているでしょう。まさに、「商品交換」的に、高く売れるポケモンを育てて、それと引き換えに、良いポケモンを買うわけです。

S 同感です。

K かつての「野生の思考」が生きていた頃の社会で、「自分が手塩にかけて育ててきた娘」をほかの男性に「贈与」していくように、現代の子供は、ポケモンを贈与していくのだと言ってる訳だけど、娘とポケモンを類比出来るわけないでしょ(笑)イカれてる。

S 本当にその通り。他に、こんなことも言っている。

「ものの交換といっしょに、なにかの意味伝達がおこなわれる。個体性を超えて流動している、その宇宙的な力に触れているとき、ものやことばの交換において深い意味が発生できる。ところがこの接触がない場合には、ものともの、人と人はいとも簡単に数字や情報に還元されてしまう。簡単な浅いレベルの伝達にとどまってしまうのである」

それで、ポケモンは、この、深い意味を発生させた交換が出来ているという風に中沢は主張するわけなんだけど……。どうですかこれ?

K 親の名前がポケモンに記録されるというのは、まさに、人と人(ポケモン)の関係が情報に還元されているということの典型的な良い例ですよ。

S 本当にそう。

K それで、ポケモンが、自分の生命がたくさん詰まっている「対象a」なんだっていうことを中沢は言っているんだけど……。どうなんでしょうか。

S 俺もラカン理論に全然詳しくないから分からないけど、絶対違う気がする(笑)

K うん、そうですよね。ラカンに詳しい方は是非教えてください(笑)

S しかし、とんでもない本だなこの本。ポケモンっていうポップカルチャーを、偉い学者がクソ真面目に語るとこうなってしまうのか。凄い小難しいこととか壮大なこととか言ってるけど、バカバカしい様にしか思えない(笑)

K そういう意味では、面白い「奇書」ですよね。もう笑いなしでは読めません。

 

エピローグを読んでの結論

 

K 最後まで読みましたね。どうでしたか。

S やっぱり思うのは、中沢がポケモンに誇大妄想的なロマンチズムを抱いていること。無機質だと思われていたゲームの世界に、ポケモンは豊かな自然を導入した。ここまでは素直に賛同できる。だけど、さらに中沢はポケモンに「森の神」と呼ぶような多神教的要素や、文化人類学の「贈与の霊」を読み込んでしまう。ここがさっぱりわからない。

K 中沢と我々の見解の齟齬は、子供時代にリアルタイムでポケモンに熱狂したか否かにあると思います。我々は実際に当時熱狂した分、逆にシビアに俯瞰できている気がします。我々は「もう一つの世界がある」と思わせてくれるような精緻な世界観や、白熱のポケモンバトルは大いに楽しんだけれども、ポケモン対象a的な過剰を読み取ったり、交換したポケモンに他者の人格や「たましい」を感じたりはしなかった。

S おそらく、この本はかつて叫ばれていた「ゲームをするとバカになる」的な世論に対するアンサーとして書かれたんだと思う。だからラカンレヴィ=ストロースの難しい用語を援用することで、世間の大人たちを説得しようとしている。

K その姿勢自体はすごく評価したいんですけど、そのせいで子供の実感からは乖離した壮大な可能性を標榜してしまっている。これが文学のテキストならいいですけど、ポケモンは子供向けのゲームな訳です。こちらとしては、もっと素朴に楽しませてくれよと(笑)

S 中沢新一っていう人は、そもそもそういう人なんだよね多分。中沢の本で、『始まりのレーニン』って本をだいぶ前に読んだことがあるんだけど、それも、「科学的社会主義」で有名なレーニンを、文化人類学的な言葉を動員してオカルト的に読むっていう本だった。「宇宙の力」とか「魔術」とか、そういうオカルトチックなものを、あらゆるものに素朴に感じ取ってしまう癖がある。その癖が、まさに「科学」であるゲームのポケモンに向いて、大変なことになってしまったのがこの本、ということかな。

K そうだと思います。ひとつ、少年期をポケモンと一緒に育ったダイパ厨として言っておきたいのは、ポケモンを通じたゲーマー同士のコミュニケーションは中沢が論じたような深さはなく、むしろ浅いものなんじゃないかということです。現在流行しているソシャゲなんかも同様で、それ自体はデータが削除されたら消えてしまうものでしかない。しかし、そのゆるいつながりを端緒として、さらなる相互理解の関係に移行する可能性が開かれている。そこが良さだと思います。

S なんか東浩紀みたいなこと言ってるな(笑)。俺は今回は、2日間で36時間ポケモンに漬かってきた状態でここにいるから、何が「対象a」だ、何が「森の神」だ、と思っちゃうよね。「対象a」も「森の神」もいないけど、俺たちにはゼクロムとレシラムがいるんだよ!それを、「森の神」の代替物に矮小化するな!

K えぇ……。

S 真面目に語ると、ニューアカのスターが訳わからない方向に転がっていくのは面白かったですね。私個人はオカルト的になることそれ自体は別に良いと思うんですが、この本は、何でもかんでも無理やりオカルト化しようとする、オカルトの反面教師になりました。

K ありがとうございました。

 

おまけ

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Sが36時間かけて育てたベストメンバー。ルカリオはイケメン枠。困った時のムシャーナ

自分も何か出さなくてはと思い、「片手にゲーム機を握り、もう片方の手でおたまじゃくしやザリガニを捕まえようとしている小学生」四コマ漫画を書きました。

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悪しきエリート主義か?──オルテガ『大衆の反逆』に反逆する読書会!!

登場人物

K……亜インテリその1。東浩紀動物化するポストモダン』でラノベゲーム批評の文脈から哲学や思想に興味を持つ。

S……亜インテリその2。外山恒一全共闘以後』で、運動史の文脈から、哲学や思想に興味を持つ。

 

S じゃあ、オルテガ『大衆の反逆』をピンポンダッシュ読書会していきますか。

K まさか、勇者ロトの父親がこんな真面目な本を書いてたなんて意外だったなあ。

S ドラクエ3のオルテガじゃねーよ。

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ドラクエ3のオルテガ

S この本を書いたオルテガ・イ・ガセットっていうのは、20世紀前半に活躍したスペインの哲学者。本著『大衆の反逆』によって文明批評家として世界に名を馳せた人物らしい。

政治的な立場としては、反共産主義・反ファシズムを表明していて、将軍フランコ率いるファシズム勢力とそれに対する人民戦線が戦った1936-1939のスペイン内戦勃発時には、スペインからアルゼンチンに亡命している。この本は1930年に刊行されているから、当時台頭しつつあった共産主義ファシズムに懸念を示したものとして読むことができそうだ。

K 『大衆の反逆』かぁ~。それって、大衆であるおれらがディスられているってことなの?

S まあ、そうっちゃそうだけど……。

K クッソ~、ムカつくぜ~。こんな本燃やしちまおう笑(おもむろにライターを取り出す)。

S 俺もこんなエリート主義者の本、燃やしたくて燃やしたくてたまらないけど、燃やすとしてもざっと読んでから燃やそう。ピンポンダッシュしてから燃やした方が、その炎は美しく輝くと思うから。

K まあ、そうだね(ドン引き)

 

 

第一章から第五章

 

第一章から第五章を黙読……

 

内容のおさらい

K えー、まずオルテガが『大衆』をどう定義しているかってところから整理していこうか。

S オルテガにとっての大衆とは、「平均的な人たち」のこと。大衆は、みんなと同じであることを苦にも思わず、むしろ満足している。「自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成への努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている」人のことらしい。

K ひどい言い草だな。クリティカルヒット!俺のHPはもうゼロだ!

S 気をしっかり持て。続けるぞ。オルテガは、このような大衆が19世紀で爆発的に増大してきたと言っている。実際に1800年〜1914年の間にヨーロッパの人口は一億八千万から四億六千万になっているから、そう感じられるのも無理はない。

K また、オルテガは19世紀においてヨーロッパ人の生活水準が飛躍的に向上したことについても言及しているな。これは、1918年に出版されてベストセラーになったシュペングラー『西洋の没落』へのアンチテーゼでもある(読んでない)。

S  なるほどね(もちろんこっちも読んでない!)。

K しかし、生活水準がとてつもなく向上したがゆえに、大衆は過去、歴史に対する関心や畏敬の念を失ってしまった。「おのが運命に確信が持てない時代、自分の力を誇ってはいるが、同時にそれを恐れている時代、そう、これが現代なのだ」とオルテガは言っている。

S こんな風にバカにされまくっている大衆。だけど、オルテガはそんな大衆に対してビビってもいるんだ。

K ええ?

S いわく、「私たちの運命に恐ろしい要素を加えているのは、すべてを席巻する大衆の精神の暴力的反乱である。そして、これはすべての運命同様に圧倒的で御し難く、得体の知れないものなのだ。私たちをどこに連れていくのか。それは絶対悪なのか、それともありうべき善なのか。それはまさに、私たちの時代の上に、宇宙的な疑問として、どっしり腰を据えている! それは何かギロチンか絞首台のような、しかし同時に凱旋門たらんとして、常に曖昧な形をして居座っている!」byオルテガ

K めちゃくちゃビビりまくってるじゃん。

S 次章からは、今まで述べられてきた恐ろし〜い大衆に対して、さらなる詳細な分析がなされていくぞ。

 

感想タイム

S じゃあ、ここで一区切り入れて、なんか思ったこととかある?

K そうだなあ。テキストの74pのこの傍点強調部分、「むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押し付けることにある。」ここってさぁ、哲学ピンポンダッシュのコンセプトそのままだよね(笑)

S うん(笑)。自らがアホであることを認めながら、それを開き直って、アホのくせに色んな所をピンポンダッシュしまくって荒らしまくろうという……。

K オルテガにとって、おれたちはまさにザ・大衆ってわけだ(笑)

S 俺としては、哲ピンは、大衆とエリートの間のふわふわした存在だということを主張していきたいが……。まあそこは後回しにして、俺が怒っているのはここね。「サッカー選手にはわからない楽しみ」っていうところ。

K 「知性人に特有の態度は、不思議さに大きく見開かれた眼で世界を見ることにある。大きく開かれた瞳にとって、すべては不思議で素晴らしい。これは、サッカー選手には分からない楽しみである」。まあ、オルテガ節全開という感じですが……。

S ハァ……。俺は実はサッカーオタクで、週に五試合はサッカーの試合をフルで見ているから、ここは超腹立ったわ。

K えぇ?

S 知性人の優雅な楽しみなんて知ってたまるか!それよりこっちは推しのフットボールチームの勝敗で毎週一喜一憂してるんじゃボケ!オルテガなんかより、メッシの方が遥かに偉大なんじゃボケ!最近のサッカーは本当に面白くなっていて、どういうところが面白くなったかっていうと……。

(Sのサッカー語りが10分以上続いたので、これ以降はカット。)

www.youtube.com

 

第六章から第十章

 

第六章から第十章を黙読……

 

内容のおさらい

 

S 読んだ?

K うん。読んだけど……。なんか大体同じようなこと言ってない?最後の方は正直ざっと斜め読みしちゃったよ。

S 俺もそれは思った。ま、概して哲学の権威なんて長々と偉そうなこと言っているだけで、基本同じようなことを繰り返し言ってるだけなんだよ。われらピンポンダッシュ流の正しさが証明されていくぜ!

K 内容としては、まず、大衆化した人間について、また新しい定義が補足されているよね。

S うん。一章では「自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成への努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている」という風に定義されたわけだけど、ここでは大衆がそうなってしまう精神的な理由が補足されている。オルテガ曰く、19世紀に高貴な人間の努力によって出来上がった近代社会の豊かな環境を、愚かな大衆は当たり前のもの、自然なものとして受け取ってしまう。だから、恵まれた社会に対して、何の責任感や義務感も感じずに、好き放題無責任なことをやり散らかしているってことだな。

K う~ん。まあ一理ある(笑)

S それで、大衆化した人間に対して、オルテガ的な意味での「貴族」、「高貴な人」についても説明が加えられているね。一般的には、貴族というのは、権力を独占して、好き放題勝手に動いていて、大衆というのは、貴族の暴政に対して従順に従うほかないという風に思われる。だけ、オルテガに言わせれば、それは逆で、従順なのは貴族で、何に対しても従わないのが大衆なんだってことだね。

K 貴族が従順?

S 例えば、歴史や法的規範、美徳等を、自身の内面に規律として持っていて、そういった超越的なものに対して”従順”なのが、貴族なんだ。そんな貴族は、常に自己を鍛えあげ、それまでの自己自身を超えて、新たなる可能性を選び取ろうとするわけだね。

K よくわからないけど、なんかすごそう。

S うん。まあ、とにかく誇り高い感じのすごい奴を「高貴な人」って呼ぶってことだな。

K ここまでが七章までの内容だよね。じゃあ、次は八章から。

S 八章はタイトルがもうウケるよね。「大衆はなぜ何にでも、しかも暴力的に首を突っ込むのか」って。そんな直接的に言うかよ(笑)

K 大衆蔑視がにじみ出すぎている(笑)

S 内容としては、八章あたりから具体的な政治情勢についての言及が出てくるよね。ファシズムサンディカリズムにおける野蛮な「直接行動」主義をディスって、オルテガは、自由主義の尊さを謳う。

K ちょっと待って、サンディカリズムっていうのは何?

S サンディカリズムっていうのは、「労働組合主義」みたいなことだね。でも、サンディカリズムっていうのは、単に労働組合を組織して、資本家と交渉して”賃上げ闘争”なんかをしていこうっていう大人しい思想ではない。サンディカリズムっていうのはもっと野蛮な思想で、理論なんてどうでもいいから、労働組合がゼネラルストライキを起こしまくって、とにかく暴れまくろうぜ!!暴れまくるその肉体が美しい!!みたいなノリの思想なんだ。

K えぇ……。なんだその野蛮すぎる思想……。

S まあ、そういう野蛮な思想だから、”高貴な哲学者”たるオルテガさんが嫌うのも当然な訳ですな。それでオルテガは、自由主義の寛容を謳うわけだね。

K 暴れまわったりせずに、理性的に他者を認め合おうと……。正論過ぎる(笑)

S ついでに、「ボルシェヴィズム」は分かる?

K あれだよね。レーニンが組織していて、後にロシアで共産党一党独裁体制を構築していったのが、「ボルシェヴィキ」だよね。

S そうそう、その「ボルシェヴィキ」のやり方を肯定する思想が「ボルシェヴィズム」ね。要は、知識人の職業革命家を唯一無二の前衛党に組織して、独裁していこうっていうノリの思想。で、オルテガは、当たり前だけど、ファシズムにも反対するし、このボルシェヴィズムにも、理性が一切ないといって反対する。確かに、19世紀の自由主義が変革を迫られていることは認めるが、だからといって、サンディカリズムファシズム、ボルシェヴィズムの様に、「反自由主義」を掲げるのは、単に野蛮へと退行しているだけだと。そんな野蛮な勢力を支えるのが「大衆」である、ということだね。

K ファシズム共産主義といった、20世紀を揺るがした政治体制を「大衆の反逆」の表れだと見ていた。そんな「大衆の反逆」に抗うために、高貴な人々によって担われる自由主義復興の重要性を謳っている、と……。こんなもんかな。

S これで、10章までの内容は大体まとめたね。

 

感想タイム

K オルテガの権威的な物言い自体は超ムカつくけど、直接行動主義を批判して、自由主義を守ろうとする、いわゆるリベラリズム的主張には賛同するな。

基本的なリベラリズム思想を提示したJ・S・ミルという哲学者は、『個人は自分自身に対しては、つまり自分自身の精神と身体に対してはその主権者なのである』と言っている。

だから、暴力で個人を隷属させようとする直接行動主義はリベラリズムに敵対するわけだ。また、ミルはこんなことも言っている。

一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。

S うーん。まあ、それはそうなんだけど……。

K どうかしたの?

S オルテガの権威的な物言いと、オルテガリベラリズムっていうのは、切断できないんじゃないか?俺としては、やっぱり野蛮さも兼ね備えた哲ピンスピリッツで闘っていきたいから、高貴すぎるオルテガさんの、権威的すぎる物言いにはちょっと反感を持っちゃうわけ。市民的倫理みたいなものを遵守する「貴族」の寛容の精神と、無教養な大衆の野蛮な精神が対立しているという図式をオルテガは取っている訳だよね。

K うん。

S この対立図式自体は全くその通りだと思っているわけ。その時、オルテガは、迷うことなく、自由主義を守ることが出来る「貴族の精神」を選択するわけだけど、俺はそこに戸惑っちゃう。「貴族の精神」なんて、そんな大したものなのかよっていうことだね。

K そんなこと言ったら、野蛮な全体主義になるんじゃないの?やっぱり自由主義の寛容っていうのは尊くて……。

S いやいや、むしろ俺は過激すぎるほどに全体主義が嫌いなのであって、だからこそ、「貴族」の全体主義、「寛容」の全体主義に反対なんだが……。

K う~ん。ここの対立は長引きそうだし、最後まで読み終わったらもう一度話そうか。

S そうだね。これは、無教養な大衆と理性ある貴族との間に引き裂かれている哲ピン派亜インテリが陥らざるを得ない難題、「哲学ピンポンダッシュパラドックス」として、取りあえず放置しておこう。

K パラドックスて……。無理矢理カタカナ語使いたいだけでしょ(笑)。

 

第十一章から最後まで

〜第十一章から第十三章を黙読〜

K 十一章では、ファシスト共産主義者が「満足しきったお坊ちゃん」であり、彼らは政治的自由が存在し続けることを信じているからこそ、政治的自由に反対の立場を取るのだということ、十二章では、部分的な知しか有していないにもかかわらず、知識人ぶってみせる「専門家」についての批判が述べられている。

S うん。

K 肝心なのは、最後の十三章だ。ここでオルテガは、国家の危険性を主張している。現代の人々が安全に暮らすためには、どうしても警察、つまり「社会秩序の権力」が必要となってくる。

S うん。

K しかし、その「社会秩序の権力」が個人や集団の自主性を弾圧しないとも限らない。1810年代のイギリスは、まさにこうした問題と直面していたらしい。

オルテガによると、当時のイギリスの政治家だったジョン・ウィリアム・ウォードはこう書いているという。

パリには素晴らしい警察がある、しかし見返りは高くついてくる。私としては、家宅捜査やスパイ活動やその他フーシェ(当時のフランスの警察大臣)のすべての姦策の言いなりになるより、三年あるいは四年ごとにラドクリフ通りで半ダースほどの人間が殺されるのを見る方がまだましだ。

当時のイギリスは、治安向上(に伴う国家の増長)よりも国家の制限を選択したわけだ。

こうした問題意識が、果たして現代日本では既に克服されたものなのかもこれからの哲ピンの活動で考えていければいいと思う。

S うむ。まあこんなもんだね。最後の方はぶっちゃけ似たようなこと言ってたね。じゃあ、全体の感想やまとめに行きましょう。

 

全体の感想、まとめ

S どうだった? 通して読んでみて。

K オルテガが主張したような大衆の強大化、いわゆる「反知性主義」の台頭はますます進行しているように思う。アメリカでは人種差別的なトランプ政権が誕生したし、日本でも反インテリ的言辞を得意とする政治家が人気を博したり、逆にオルテガが肯定した「貴族」はどんどんマイノリティになってる。さらにいうと、おれはリベラリズム的な「熟慮」がある場所として大学がそうであるべきだと思っているけれど、現状アカデミズムはほとんど社会に影響を与えていないし、もはや権威でも何でもない。

難しいことだとは分かっているけれど、リベラリズムを社会に根付かせていく試みをしなければいけないよね。まず日本において「リベラル」という言葉が「護憲や反自民党政治を標榜する勢力」の言い換えとして、非常にあいまいな運用のされ方をしているから、「真のリベラリズムとは何なのか?」ということを今後は考えていきたい。

S う~ん……。

K Sは違う考え方なの?

S まあ、「哲ピンパラドックス」を巡ったこの問題は中々難しいよね。

K 「哲ピンパラドックス」って言いたいだけでしょ(笑)

S 真面目に話します。まず、オルテガのこの本の主張というのは大雑把に言っちゃうと、愚かな大衆は”自由主義的精神”(他者に対する寛容、法的規範に対する尊重等)を持つことは出来ない、そして、気高い貴族=エリートは、そうした”大衆の反逆”とは距離を取って、自由主義的精神を持ち続けようということだよね。

K うん。

S こういう問題意識は、何もオルテガが変な人だったわけじゃなくて、20世紀初頭に色々なインテリが考えていたことらしい。突然、野蛮な大衆がバッと歴史上に出てきた。理性あるエリートはそれに飲み込まれちゃだめだ!!みたいな議論ね。で、オルテガが語った、「自由民主主義的理想に、まさに大衆こそが背反している!!」っていう図式は、21世紀の今は、20世紀以上に当てはまると思う。ここまではKと同じなわけだよね。

K うん。

S で、ここからが違うのは、俺はKが語るように、シンプルに自由主義=インテリの側に立って、野蛮な大衆にリベラリズムを根付かせるっていう構図は取りたくない。かといって、野蛮な大衆の側にそのまま立つことにも問題があるとは思う。「亜インテリ」を標榜する俺としては、このどちらにも立たずに、このどちらからも浮動した存在を目指すことが大事だと思うな。そういう意味で、これはまさに「哲ピンパラドックス」な訳だよね。哲学とかに代表されるような理性、教養っていうもののを、素通りする野蛮な大衆でもなければ、門の奥深くに入るインテリでもない。ピンポンダッシュする程度の距離感である「亜インテリ」である哲ピンは、大衆vsエリートの図式で、どちらにも立たずに、そこから浮動した存在であり続けなきゃ行けないんだ。

K 哲ピンの方針が再確認された感があるね。これで、オルテガ『大衆の反逆』を〆たいと思う。しかし、これを読んでくれている方々には一つの疑問が残るかもしれない。

「こいつらは本当にこれで『大衆の反逆』に反逆できたつもりなのか?」と。

ぐぬぬ……。確かに、それは疑わしい。それを哲ピンの今後の活動で証明していくつもりなので、是非注目していってくれ!

S つまり、ジャンプの打ち切り漫画的な、「俺たち亜インテリの戦いはこれからだ!」エンドってことね(笑)。

K 打ち切られちゃダメだろ!

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哲学ピンポンダッシュ!とは何か?

──哲学ピンポンダッシュとは何か?

 

……哲学をピンポンダッシュする運動である。

 

哲学をピンポンダッシュするとはどういうことか?

 

……しばし長くなるが、お付き合い頂こう。

カフカの作品に「法の前に」というタイトルの寓話がある。

門番が立つ法の前に、一人の男がやってきて中に入れてくれと頼む。

しかし、門番はいまは入れることを許す訳にはいかないと答える。

男は門前で待ち続けるが、ついに命が尽きかけて問う。

「だれもが法を求めているというのに、この長い年月の間、どうしてわたしの他にだれも、中に入れてくださいと言ってこなかったのです?」

男に臨終の時が迫ることを知った門番は大声で怒鳴った。

「ここには、他のだれも入れないのだ。この入り口は、お前のためだけにできていたのだからな。さあ、もうおれは行くことにする。門を閉めるぞ。

……こうして寓話は終わる。

 

あえて言おう。

哲学の門もこれと同様である!!

……哲学を入門する道は、長く険しい。「○○入門」みたいな本でサクッと入門しようとしても、インテリ野郎に「原著を読まないと正しいニュアンスが伝わらない!」と厳しいお叱りを受けたりする。

そもそも、哲学の入門書自体が難しくて読めない。

浅田彰の「構造の力」とか、何これホントに日本語?って感じだ。

 

そこで一介のアホ大学生に過ぎない我々は、ピンポンダッシュ!をすることを決意した。

誤読してしまうことを覚悟の上で、人文書を読みまくる!

 

……え?哲学書じゃなくて、人文書なのかって?

哲学ピンポンダッシュは、狭義の哲学書だけではなく、哲学や思想、芸術、歴史、政治、社会……人文系学問を全てひっくるめて「哲学」として扱っていく!

 

……え?そんな雑なことしていいのかって?たとえば「芸術は政治から独立している」だって?

果たしてそうだろうか?

芸術ポリティカル・コレクトネスであることを迫られ、急速に政治化している。

思想においては、コロナ禍に直面してフーコーの生権力論が再検討されつつある。

今だからこそ、「政治=思想=文化」を三位一体として思考すべきなのだ!

 

哲学ピンポンダッシュは、「誤読を恐れないピンポンダッシュ精神」「政治=思想=文学の三位一体」を二大方針として掲げて活動していく。

 

既にブログに上がっているようなピンポンダッシュ!精神に基づいた読書会をどしどし開催していくつもりなので、共鳴してくれた亜インテリ大学生は是非参加してほしい。

さあ、キミも今すぐ哲学ピンポンダッシュ!!

(読書会の告知は、Twitter(@TetupinnDash)で行っていきます。

また、お問い合わせはtetupinn@gmail.comによろしくお願いします。)

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