哲学ピンポンダッシュ!委員会

入門するな!ピンポンダッシュするぞ!

悪しきエリート主義か?──オルテガ『大衆の反逆』に反逆する読書会!!

登場人物

K……亜インテリその1。東浩紀動物化するポストモダン』でラノベゲーム批評の文脈から哲学や思想に興味を持つ。

S……亜インテリその2。外山恒一全共闘以後』で、運動史の文脈から、哲学や思想に興味を持つ。

 

S じゃあ、オルテガ『大衆の反逆』をピンポンダッシュ読書会していきますか。

K まさか、勇者ロトの父親がこんな真面目な本を書いてたなんて意外だったなあ。

S ドラクエ3のオルテガじゃねーよ。

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ドラクエ3のオルテガ

S この本を書いたオルテガ・イ・ガセットっていうのは、20世紀前半に活躍したスペインの哲学者。本著『大衆の反逆』によって文明批評家として世界に名を馳せた人物らしい。

政治的な立場としては、反共産主義・反ファシズムを表明していて、将軍フランコ率いるファシズム勢力とそれに対する人民戦線が戦った1936-1939のスペイン内戦勃発時には、スペインからアルゼンチンに亡命している。この本は1930年に刊行されているから、当時台頭しつつあった共産主義ファシズムに懸念を示したものとして読むことができそうだ。

K 『大衆の反逆』かぁ~。それって、大衆であるおれらがディスられているってことなの?

S まあ、そうっちゃそうだけど……。

K クッソ~、ムカつくぜ~。こんな本燃やしちまおう笑(おもむろにライターを取り出す)。

S 俺もこんなエリート主義者の本、燃やしたくて燃やしたくてたまらないけど、燃やすとしてもざっと読んでから燃やそう。ピンポンダッシュしてから燃やした方が、その炎は美しく輝くと思うから。

K まあ、そうだね(ドン引き)

 

 

第一章から第五章

 

第一章から第五章を黙読……

 

内容のおさらい

K えー、まずオルテガが『大衆』をどう定義しているかってところから整理していこうか。

S オルテガにとっての大衆とは、「平均的な人たち」のこと。大衆は、みんなと同じであることを苦にも思わず、むしろ満足している。「自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成への努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている」人のことらしい。

K ひどい言い草だな。クリティカルヒット!俺のHPはもうゼロだ!

S 気をしっかり持て。続けるぞ。オルテガは、このような大衆が19世紀で爆発的に増大してきたと言っている。実際に1800年〜1914年の間にヨーロッパの人口は一億八千万から四億六千万になっているから、そう感じられるのも無理はない。

K また、オルテガは19世紀においてヨーロッパ人の生活水準が飛躍的に向上したことについても言及しているな。これは、1918年に出版されてベストセラーになったシュペングラー『西洋の没落』へのアンチテーゼでもある(読んでない)。

S  なるほどね(もちろんこっちも読んでない!)。

K しかし、生活水準がとてつもなく向上したがゆえに、大衆は過去、歴史に対する関心や畏敬の念を失ってしまった。「おのが運命に確信が持てない時代、自分の力を誇ってはいるが、同時にそれを恐れている時代、そう、これが現代なのだ」とオルテガは言っている。

S こんな風にバカにされまくっている大衆。だけど、オルテガはそんな大衆に対してビビってもいるんだ。

K ええ?

S いわく、「私たちの運命に恐ろしい要素を加えているのは、すべてを席巻する大衆の精神の暴力的反乱である。そして、これはすべての運命同様に圧倒的で御し難く、得体の知れないものなのだ。私たちをどこに連れていくのか。それは絶対悪なのか、それともありうべき善なのか。それはまさに、私たちの時代の上に、宇宙的な疑問として、どっしり腰を据えている! それは何かギロチンか絞首台のような、しかし同時に凱旋門たらんとして、常に曖昧な形をして居座っている!」byオルテガ

K めちゃくちゃビビりまくってるじゃん。

S 次章からは、今まで述べられてきた恐ろし〜い大衆に対して、さらなる詳細な分析がなされていくぞ。

 

感想タイム

S じゃあ、ここで一区切り入れて、なんか思ったこととかある?

K そうだなあ。テキストの74pのこの傍点強調部分、「むしろ現代の特徴は、凡俗な魂が、自らを凡俗であると認めながらも、その凡俗であることの権利を大胆に主張し、それを相手かまわず押し付けることにある。」ここってさぁ、哲学ピンポンダッシュのコンセプトそのままだよね(笑)

S うん(笑)。自らがアホであることを認めながら、それを開き直って、アホのくせに色んな所をピンポンダッシュしまくって荒らしまくろうという……。

K オルテガにとって、おれたちはまさにザ・大衆ってわけだ(笑)

S 俺としては、哲ピンは、大衆とエリートの間のふわふわした存在だということを主張していきたいが……。まあそこは後回しにして、俺が怒っているのはここね。「サッカー選手にはわからない楽しみ」っていうところ。

K 「知性人に特有の態度は、不思議さに大きく見開かれた眼で世界を見ることにある。大きく開かれた瞳にとって、すべては不思議で素晴らしい。これは、サッカー選手には分からない楽しみである」。まあ、オルテガ節全開という感じですが……。

S ハァ……。俺は実はサッカーオタクで、週に五試合はサッカーの試合をフルで見ているから、ここは超腹立ったわ。

K えぇ?

S 知性人の優雅な楽しみなんて知ってたまるか!それよりこっちは推しのフットボールチームの勝敗で毎週一喜一憂してるんじゃボケ!オルテガなんかより、メッシの方が遥かに偉大なんじゃボケ!最近のサッカーは本当に面白くなっていて、どういうところが面白くなったかっていうと……。

(Sのサッカー語りが10分以上続いたので、これ以降はカット。)

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第六章から第十章

 

第六章から第十章を黙読……

 

内容のおさらい

 

S 読んだ?

K うん。読んだけど……。なんか大体同じようなこと言ってない?最後の方は正直ざっと斜め読みしちゃったよ。

S 俺もそれは思った。ま、概して哲学の権威なんて長々と偉そうなこと言っているだけで、基本同じようなことを繰り返し言ってるだけなんだよ。われらピンポンダッシュ流の正しさが証明されていくぜ!

K 内容としては、まず、大衆化した人間について、また新しい定義が補足されているよね。

S うん。一章では「自らに何ら特別な要求をせず、生きることも既存の自分の繰り返しにすぎず、自己完成への努力をせずに、波の間に間に浮標のように漂っている」という風に定義されたわけだけど、ここでは大衆がそうなってしまう精神的な理由が補足されている。オルテガ曰く、19世紀に高貴な人間の努力によって出来上がった近代社会の豊かな環境を、愚かな大衆は当たり前のもの、自然なものとして受け取ってしまう。だから、恵まれた社会に対して、何の責任感や義務感も感じずに、好き放題無責任なことをやり散らかしているってことだな。

K う~ん。まあ一理ある(笑)

S それで、大衆化した人間に対して、オルテガ的な意味での「貴族」、「高貴な人」についても説明が加えられているね。一般的には、貴族というのは、権力を独占して、好き放題勝手に動いていて、大衆というのは、貴族の暴政に対して従順に従うほかないという風に思われる。だけ、オルテガに言わせれば、それは逆で、従順なのは貴族で、何に対しても従わないのが大衆なんだってことだね。

K 貴族が従順?

S 例えば、歴史や法的規範、美徳等を、自身の内面に規律として持っていて、そういった超越的なものに対して”従順”なのが、貴族なんだ。そんな貴族は、常に自己を鍛えあげ、それまでの自己自身を超えて、新たなる可能性を選び取ろうとするわけだね。

K よくわからないけど、なんかすごそう。

S うん。まあ、とにかく誇り高い感じのすごい奴を「高貴な人」って呼ぶってことだな。

K ここまでが七章までの内容だよね。じゃあ、次は八章から。

S 八章はタイトルがもうウケるよね。「大衆はなぜ何にでも、しかも暴力的に首を突っ込むのか」って。そんな直接的に言うかよ(笑)

K 大衆蔑視がにじみ出すぎている(笑)

S 内容としては、八章あたりから具体的な政治情勢についての言及が出てくるよね。ファシズムサンディカリズムにおける野蛮な「直接行動」主義をディスって、オルテガは、自由主義の尊さを謳う。

K ちょっと待って、サンディカリズムっていうのは何?

S サンディカリズムっていうのは、「労働組合主義」みたいなことだね。でも、サンディカリズムっていうのは、単に労働組合を組織して、資本家と交渉して”賃上げ闘争”なんかをしていこうっていう大人しい思想ではない。サンディカリズムっていうのはもっと野蛮な思想で、理論なんてどうでもいいから、労働組合がゼネラルストライキを起こしまくって、とにかく暴れまくろうぜ!!暴れまくるその肉体が美しい!!みたいなノリの思想なんだ。

K えぇ……。なんだその野蛮すぎる思想……。

S まあ、そういう野蛮な思想だから、”高貴な哲学者”たるオルテガさんが嫌うのも当然な訳ですな。それでオルテガは、自由主義の寛容を謳うわけだね。

K 暴れまわったりせずに、理性的に他者を認め合おうと……。正論過ぎる(笑)

S ついでに、「ボルシェヴィズム」は分かる?

K あれだよね。レーニンが組織していて、後にロシアで共産党一党独裁体制を構築していったのが、「ボルシェヴィキ」だよね。

S そうそう、その「ボルシェヴィキ」のやり方を肯定する思想が「ボルシェヴィズム」ね。要は、知識人の職業革命家を唯一無二の前衛党に組織して、独裁していこうっていうノリの思想。で、オルテガは、当たり前だけど、ファシズムにも反対するし、このボルシェヴィズムにも、理性が一切ないといって反対する。確かに、19世紀の自由主義が変革を迫られていることは認めるが、だからといって、サンディカリズムファシズム、ボルシェヴィズムの様に、「反自由主義」を掲げるのは、単に野蛮へと退行しているだけだと。そんな野蛮な勢力を支えるのが「大衆」である、ということだね。

K ファシズム共産主義といった、20世紀を揺るがした政治体制を「大衆の反逆」の表れだと見ていた。そんな「大衆の反逆」に抗うために、高貴な人々によって担われる自由主義復興の重要性を謳っている、と……。こんなもんかな。

S これで、10章までの内容は大体まとめたね。

 

感想タイム

K オルテガの権威的な物言い自体は超ムカつくけど、直接行動主義を批判して、自由主義を守ろうとする、いわゆるリベラリズム的主張には賛同するな。

基本的なリベラリズム思想を提示したJ・S・ミルという哲学者は、『個人は自分自身に対しては、つまり自分自身の精神と身体に対してはその主権者なのである』と言っている。

だから、暴力で個人を隷属させようとする直接行動主義はリベラリズムに敵対するわけだ。また、ミルはこんなことも言っている。

一人の人間を除いて全人類が同じ意見で、一人だけ意見がみんなと異なるとき、その一人を黙らせることは、一人の権力者が力ずくで全体を黙らせるのと同じくらい不当である。

S うーん。まあ、それはそうなんだけど……。

K どうかしたの?

S オルテガの権威的な物言いと、オルテガリベラリズムっていうのは、切断できないんじゃないか?俺としては、やっぱり野蛮さも兼ね備えた哲ピンスピリッツで闘っていきたいから、高貴すぎるオルテガさんの、権威的すぎる物言いにはちょっと反感を持っちゃうわけ。市民的倫理みたいなものを遵守する「貴族」の寛容の精神と、無教養な大衆の野蛮な精神が対立しているという図式をオルテガは取っている訳だよね。

K うん。

S この対立図式自体は全くその通りだと思っているわけ。その時、オルテガは、迷うことなく、自由主義を守ることが出来る「貴族の精神」を選択するわけだけど、俺はそこに戸惑っちゃう。「貴族の精神」なんて、そんな大したものなのかよっていうことだね。

K そんなこと言ったら、野蛮な全体主義になるんじゃないの?やっぱり自由主義の寛容っていうのは尊くて……。

S いやいや、むしろ俺は過激すぎるほどに全体主義が嫌いなのであって、だからこそ、「貴族」の全体主義、「寛容」の全体主義に反対なんだが……。

K う~ん。ここの対立は長引きそうだし、最後まで読み終わったらもう一度話そうか。

S そうだね。これは、無教養な大衆と理性ある貴族との間に引き裂かれている哲ピン派亜インテリが陥らざるを得ない難題、「哲学ピンポンダッシュパラドックス」として、取りあえず放置しておこう。

K パラドックスて……。無理矢理カタカナ語使いたいだけでしょ(笑)。

 

第十一章から最後まで

〜第十一章から第十三章を黙読〜

K 十一章では、ファシスト共産主義者が「満足しきったお坊ちゃん」であり、彼らは政治的自由が存在し続けることを信じているからこそ、政治的自由に反対の立場を取るのだということ、十二章では、部分的な知しか有していないにもかかわらず、知識人ぶってみせる「専門家」についての批判が述べられている。

S うん。

K 肝心なのは、最後の十三章だ。ここでオルテガは、国家の危険性を主張している。現代の人々が安全に暮らすためには、どうしても警察、つまり「社会秩序の権力」が必要となってくる。

S うん。

K しかし、その「社会秩序の権力」が個人や集団の自主性を弾圧しないとも限らない。1810年代のイギリスは、まさにこうした問題と直面していたらしい。

オルテガによると、当時のイギリスの政治家だったジョン・ウィリアム・ウォードはこう書いているという。

パリには素晴らしい警察がある、しかし見返りは高くついてくる。私としては、家宅捜査やスパイ活動やその他フーシェ(当時のフランスの警察大臣)のすべての姦策の言いなりになるより、三年あるいは四年ごとにラドクリフ通りで半ダースほどの人間が殺されるのを見る方がまだましだ。

当時のイギリスは、治安向上(に伴う国家の増長)よりも国家の制限を選択したわけだ。

こうした問題意識が、果たして現代日本では既に克服されたものなのかもこれからの哲ピンの活動で考えていければいいと思う。

S うむ。まあこんなもんだね。最後の方はぶっちゃけ似たようなこと言ってたね。じゃあ、全体の感想やまとめに行きましょう。

 

全体の感想、まとめ

S どうだった? 通して読んでみて。

K オルテガが主張したような大衆の強大化、いわゆる「反知性主義」の台頭はますます進行しているように思う。アメリカでは人種差別的なトランプ政権が誕生したし、日本でも反インテリ的言辞を得意とする政治家が人気を博したり、逆にオルテガが肯定した「貴族」はどんどんマイノリティになってる。さらにいうと、おれはリベラリズム的な「熟慮」がある場所として大学がそうであるべきだと思っているけれど、現状アカデミズムはほとんど社会に影響を与えていないし、もはや権威でも何でもない。

難しいことだとは分かっているけれど、リベラリズムを社会に根付かせていく試みをしなければいけないよね。まず日本において「リベラル」という言葉が「護憲や反自民党政治を標榜する勢力」の言い換えとして、非常にあいまいな運用のされ方をしているから、「真のリベラリズムとは何なのか?」ということを今後は考えていきたい。

S う~ん……。

K Sは違う考え方なの?

S まあ、「哲ピンパラドックス」を巡ったこの問題は中々難しいよね。

K 「哲ピンパラドックス」って言いたいだけでしょ(笑)

S 真面目に話します。まず、オルテガのこの本の主張というのは大雑把に言っちゃうと、愚かな大衆は”自由主義的精神”(他者に対する寛容、法的規範に対する尊重等)を持つことは出来ない、そして、気高い貴族=エリートは、そうした”大衆の反逆”とは距離を取って、自由主義的精神を持ち続けようということだよね。

K うん。

S こういう問題意識は、何もオルテガが変な人だったわけじゃなくて、20世紀初頭に色々なインテリが考えていたことらしい。突然、野蛮な大衆がバッと歴史上に出てきた。理性あるエリートはそれに飲み込まれちゃだめだ!!みたいな議論ね。で、オルテガが語った、「自由民主主義的理想に、まさに大衆こそが背反している!!」っていう図式は、21世紀の今は、20世紀以上に当てはまると思う。ここまではKと同じなわけだよね。

K うん。

S で、ここからが違うのは、俺はKが語るように、シンプルに自由主義=インテリの側に立って、野蛮な大衆にリベラリズムを根付かせるっていう構図は取りたくない。かといって、野蛮な大衆の側にそのまま立つことにも問題があるとは思う。「亜インテリ」を標榜する俺としては、このどちらにも立たずに、このどちらからも浮動した存在を目指すことが大事だと思うな。そういう意味で、これはまさに「哲ピンパラドックス」な訳だよね。哲学とかに代表されるような理性、教養っていうもののを、素通りする野蛮な大衆でもなければ、門の奥深くに入るインテリでもない。ピンポンダッシュする程度の距離感である「亜インテリ」である哲ピンは、大衆vsエリートの図式で、どちらにも立たずに、そこから浮動した存在であり続けなきゃ行けないんだ。

K 哲ピンの方針が再確認された感があるね。これで、オルテガ『大衆の反逆』を〆たいと思う。しかし、これを読んでくれている方々には一つの疑問が残るかもしれない。

「こいつらは本当にこれで『大衆の反逆』に反逆できたつもりなのか?」と。

ぐぬぬ……。確かに、それは疑わしい。それを哲ピンの今後の活動で証明していくつもりなので、是非注目していってくれ!

S つまり、ジャンプの打ち切り漫画的な、「俺たち亜インテリの戦いはこれからだ!」エンドってことね(笑)。

K 打ち切られちゃダメだろ!

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